鏡に自分の顔を映してみることには、違和感がない。

それは見慣れた自分の顔だ。

そもそも自分の顔は鏡を通してしか見ることがないのだから当たり前だ。

ところが自分の手を鏡に向けると、全く他人の手を見たような気になる。

細かく見ると、爪の形や手の色など、確かに自分の手ではあるようなのだけれど、ぱっと見たときの印象が、「何か違う」。

よく考えてみると、鏡だから左右反転して見えているのだと思い当たる。

人の脳は対象が上下反転しているだけで認識出来ないという話は聞いたことがあるが、まさか左右反転でも同じ現象が起こるとは。

左右反転した手ですら、「自分じゃない」と思ってしまうのだから、反転していない自分そのものともし街中ですれ違っても、わからないのではないか。

ドッペルゲンガーに会ったという人に出会ったことはないけれど、もし会えたら「それ、本当に自分の顔でした?」と聞いてみたい。

自分が思っている自分の顔は、もしかしたらそう思い込んでいるだけの姿なのかもしれない。

梅干しの挽き割り納豆

今週のお題「納豆」

 

小さい頃の私は、結構な偏食家だった。

野菜が食べられない、ご飯やパンもたくさんは食べられない、

その代わりお菓子や肉はたくさん食べる。

 

そんな調子だったから一食を食べきるのはかなり大変だったのだけれど

おかずはほとんど食べられないくせに、なぜだか梅干しは好きだった。

我が家の梅干しは母が自分でつけた物で、ほんの少しでびっくりするほど酸っぱい。

そんな梅干しを、毎食、白ご飯に必ず添えて食べていた。

梅干しさえ間に挟めば、苦手なおかずも一口ずつは食べられた。

 

梅干しのおかげで食べられるようになった物の一つが、納豆である。

納豆自体は苦手だったが、梅干しと合わせて挽き割りにしたものなら喜んで食べた。

そのうちいろいろな物が食べられるようになって、

今はネギを入れたスタンダードな納豆ばかりになったが

もし梅干しがなかったら、今も納豆を食べられなかったかもしれない。

 

しかし、あの時期、私がそれしか食べられないからと、納豆といえば梅干しの挽き割りばかりだった。

今はネギばかりであることを思えば、親は特別梅の納豆が好きだったわけでもないだろうに。

飽きるだろうし洗い物も面倒なのに、子どものわがままに付き合ってよくやってくれたものだと思う。

偏食を直せと強制された覚えはないけれど、いろいろ考えてくれていたんだなぁ。

 

今更気づいて、感謝です。

10月寒波

今週のお題「急に寒いやん」

 

急に寒いやん。

寒すぎてお腹こわしたやん。

毛布やらセーターやら引っ張り出して、背中にカイロまで貼って、10月にこれって、私大丈夫かいなと思いつつ過ごしたら、夜になってびっくり。

太もも蚊に刺されてるやん。

着込みすぎてむくんでて痒いのかと思ったら、普通に虫刺されやん。

引くほど寒いのに蚊も御健在って、ここはロシアか!?

 

体調も悪いのに情緒もちょっとおかしくなった三連休でした。

おじさんとおばさん

「30歳以上の女の人は、みんな『おばさん』でいいでしょ?」

 

とある男性からそう言われて、いや、それはちょっと止めたほうがいいと私は言いました。敵に回す相手が多すぎます。

 

「じゃあ、40歳以上なら『おばさん』でいい?」

 

重ねて聞かれて、おや、どうもそれも違うぞと私は思いました。なぜって、その論法でいくと私の敬愛するあの方やあの方まで「おばさん」ということになってしまいます。それはどうにも容認しがたい。

 

年齢の問題じゃないのだと私が言うと、彼は

「年をとった男は『おじさん』なんだから、年をとった女は『おばさん』でしょ?」

と言います。

 

確かに。言葉の定義の上では。

しかし「おばさん」という言葉には、そういった定義以上に、外見や雰囲気において女性的魅力が著しく欠けているという強いマイナスイメージが染み付いているのです。

 

「素敵なおじさん」という言葉はあっても、

「素敵なおばさん」という言葉はありません。

 

「おじさま」と「おばさま」ならば確かに対等。

けれど、「おじさん」と「おばさん」はけっして同格ではないのです。

 

それは若さと美しさを女性の価値としてきた時代が長かったせいなのだろうけど、面白いなと思ったのは、そういう価値観に反発しているはずの女性の側にこそより強くこのマイナスイメージが根付いているように思えることです。

 

そういえば「おばさん化ストップ」のようなアオリも女性誌でよく見ます。

女性の容姿の評価により厳しいのも、やはり同じ女性です。

 

年を取り、美しくなくなった女性=「おばさん」というマイナスイメージは当然男性にもあるだろうと思っていたのですが、どうもその意識は女性の方がより過敏らしい。

 

だから男性から「おばさん」などと言われると、

女性は「なんて侮辱を!」と憤慨し、

言った男性はきょとんとしているという奇妙な現象が起きるのですね。

 

でもこれ、単に女性の気にしすぎと言っていいのでしょうか。

女性であればたとえ小学生であっても、容姿による扱いの差を感じたことのない人はいないでしょうし、

年齢や見た目、もろもろを理由とするけなし言葉としての「おばさん」を耳にしたことのない大人なんて、男女ともにいないでしょう。

女性が男性よりもこの言葉に過敏になる理由があるとしたら、それによって傷つけられる側だからなのではないでしょうか。

傷つけられたくなくて過敏になるあまり、自家中毒を起こしている面はあるにしても。

 

「おばさん」という言葉自体に罪はない。

ですが、けなし言葉としてある程度定着してしまっている以上、

気軽に使うのは控えて頂けませんかね。

 

それでまぁ、結論としましては。

 

「おばさん」ではなく敬意をこめて、「年上の女性」と呼んでください。

ヨーグルト

今週のお題「手づくり」

 

朝食にはいつも、ヨーグルトを食べます。

そこにトーストが加わったりスープが加わったり、日によっていろいろですが、ヨーグルトだけは毎朝食べています。

そんな我が家の習慣をうけて、かつて何度か試みたのが手作りヨーグルト。

瓶密封出来るに熱湯を入れて、ヨーグルトを入れた牛乳とともに一晩おく、とか。

夏なら常温で一晩おけば大丈夫、とか。

いろいろな方法を聞いてやってみたものの、あまりうまくいかず、それきりになっていました。

が、この冬、思い立ってヨーグルトメーカーを買ってみました。

夜の内にセットして、放っておけば朝には結構ちゃんとしたヨーグルトができあがっています。

やはり大事なのは温度だったのでしょうね。

私の住む地域は寒いので、室温43度なんて真夏でもそうありません。

そんなわけでようやく実現した手作りヨーグルト生活。

週末にはヨーグルトを使ったお菓子なども作って満喫しています。

お菓子作りの方はじきに飽きるでしょうが、ヨーグルトの方は簡単なので続けられそう。

ヨーグルトメーカーは、会社も不明な安物を買ってしまったので、どうか壊れませんようにと祈るばかりです。

米津玄師さん『vivi』について

以前、ブログに書いた記事の中でこの歌に触れたことがありました。

その中で私はこの歌を家族愛として解釈したのですが、時間が経って改めて読んでみてもやはりそう解釈できるように思ったので、ここでもう少し整理して書いておきたいと思います。

まず私がこの歌を家族愛として解釈したのはまさにこの歌い出しのためでした。

 

  悲しくて飲み込んだ言葉 ずっと後についてきた

  苛立って投げ出した言葉 もう二度と戻ることはない

 

まるで親(特に母親)に対して素直に物が言えない思春期の少年のようだと思ったのです。

しかし、少年もいつか成長します。今まで思ってもいないことを言ってしまっていたことを思い返し、謝りたい、素直な気持ちを伝えたいと考えますが、事はそう簡単には進みません。

 

  言葉にすると嘘くさくなって

  形にするとあやふやになって

  丁度のものはひとつもなくて

  ふがいないや

 

大事なことほど伝えようとすると上手く言葉にならないものです。

「僕」は思いを伝えることができずうなだれます。

 

  愛してるよビビ

  明日になれば

  バイバしなくちゃいけない僕だ

  灰になりそうな

  まどろむ街を

  あなたと共に置いていくのさ

 

別れ(ここでは実家がある街から出て一人暮らしをするのでしょう)はもう明日に迫っています。伝えたいことは溢れるほどあるのに、形にできないもどかしさ。

夜遅くまで苦心して手紙を書こうとしますが、うまくいきません。

 

  あなたへと渡す手紙のため

  いろいろと思い出した

  どれだって美しいけれども

  一つも書くことなどないんだ

 

  でもどうして言葉にしたくなって

  鉛みたいな嘘に変えてまで

  行方のない鳥になってまで

  汚してしまうのか

 

たくさん思い出はあふれてくる。そのときの気持ちも思い出せる。

でもそれを言葉にすることは難しくて、

無理に表現しようとすればどこかに嘘が混じってしまう。

言いたかったことが、自分でもわからなくなってしまう。

伝えたかったことを汚してまで言葉にするのは、どうしようもなく苦しかった。

 

  愛してるよビビ

  明日になれば

  今日の僕らは死んでしまうさ

  こんな話など

  忘れておくれ

  言いたいことは一つもないさ

 

もういい!なんでもない!と、「僕」は伝えることを諦めてしまいます。

どうせ明日には別れて、この関係は壊れてしまうのだから。

そうしてとうとう、朝が来てしまいます。

 

  溶け出した琥珀の色

  落ちていく気球と飛ぶカリブー

  足のないブロンズと

  踊りを踊った閑古鳥

  忙しなく鳴るニュース

  「街から子供が消えていく」

  泣いてるようにも歌を歌う

  魚が静かに僕を見る

 

「溶け出した琥珀の色」は昇り始めた朝日の色かなと思いました。

「落ちていく気球」はしぼんでいく「僕」の勇気、

「飛ぶカリブー」は逆にふくれあがっていく暴力的な気持ち、

「足のないブロンズ」や「踊りを踊った閑古鳥」はそれによってフラッシュバックした幼少期の破壊や失敗を示唆しているような気がします。

米津玄師さんの他の歌の歌詞と関連しているそうなのですが、

あくまでこの歌詞単体から受けた印象として。

 

朝になり、ニュースが流れ始めます。

それは、地方から若者が出て行ってしまい、街が過疎化しているというものでした。

きっと「僕」は「自分のことだ」とどきりとしたことでしょう。

 

最後の「泣いてるようにも歌を歌う/魚が静かに僕を見る」の部分はなんとなく

松尾芭蕉さんの

  行く春や鳥啼き魚の目は涙

という俳句を思い出してしまいました。

この俳句は芭蕉さんが旅に出るときに沢山の人が見送りに来てくれて、鳥や魚まで別れを惜しんでくれているように感じているというものです。

もしこの俳句に重ねているとしたら、芭蕉さんに比べて「僕」は全く別れを惜しんでもらえていません。

「鳥」かどうかはわかりませんが、泣くどころか歌を歌っているし、

「魚」も涙など見せず静かに「僕」を見ているだけです。

それはやはり、幼少期からのさまざまな失敗が尾を引いているのでしょう。

別れを惜しんでくれる人間関係を、「僕」は築くことができませんでした。

 

  どうにもならない心でも

  あなたと歩いてきたんだ

 

自分にも制御出来ない心で、沢山の人を傷つけた。

でもそんなとき、一緒に相手に謝り、不器用な「僕」に寄り添って生きてくれたのは、やはり親だったのでしょう。

あるいは、「あなた」は自分の心かもしれません。

だとしたら、どうしようもない自分自身を「僕」が受け入れたことを表しているのでしょう。

 

  言葉を吐いて

  体に触れて

  それでも何も言えない僕だ

  愛してるよビビ

  愛してるよビビ

  さよならだけが僕らの愛だ

 

別れの時が迫っています。

何の意味もないような会話はできます。

肩に触れたり、もしかしたら軽いハグもしているかもしれません。

なのに、肝心な、一番伝えたかった言葉は何も言えません。

それはきっと「愛してるよ」の一言だったのです。

でも結局言えないまま、別れてしまいます。

成長し、親元を巣立っていく子供。

その姿を見せることが「僕」にとっての唯一の愛情表現でした。

そしてそれを見守ることが、親の愛でした。

 

 

と、解釈してみましたが、個人的感想なので、読む人・聴く人によって解釈は無限大に変わるのだろうと思います。

また数年経って解釈が変わっていたら面白いなと思うので、ひとまず残しておきたいと思います。

朝の光

あまりに運動不足で、体調を崩して、慢性的腰痛に苦しんだ去年。

このままではまともな老後が送れないと危機感を覚え、新年を機に、散歩をしようと心に決めた。

初めは10分も歩くと息が荒くなっていたけれど、今は1時間弱ぐらいなら特に問題なく歩けるようになった。

2日に1度のペースを守れば腰痛もほとんど発症しなくなったし、ついでに少々減量もできた。

仕事が早く終わった日は夕方から歩くこともあるけれど、なるべく平日も続けようと思ったら、やはり朝歩くのが一番確実だ。

朝5時半、アラームで目覚めて、着替えながら白湯を一杯飲んで出かける。

まだ日が昇りきっていない時間なので、あまり日焼けを気にする必要もない。

自分の住んでいる町を一望できる丘に登って、一呼吸。

ここまでおよそ15分。折り返せば全体で30分程度の散歩となり、朝の軽い運動としてはちょうどいい。

少し前はちょうど丘に着いた頃に日が昇り始めて、町全体にかかった朝靄が白く照らされる光景が拝めたのだが、残念ながら今はすっかり日の出が遅くなってしまった。

じきに冬が来る。

朝はますます冷え込むだろうが、せっかく根付いた習慣である。

できればこのまま続けていきたい。

そうすればまた、あの朝の光も見ることができるだろう。

 

今週のお題「マイルーティン」