信じること
人への不信感が強い。
それは、小さい頃から自分と周りがどこか違うと思って壁を作ってしまったせいもあるのだろうけど、もう少し別の理由もある。
私の顔にはかつてくるみ大のできものがあった。私はさしてそれを気に留めていなかったが、通りすがりの人にジロジロ見られたり、こそこそと何か言われたりするのは日常茶飯事だった。しかし、生きる上で不便があるわけでもなし、そういった人のために自分を変えるのは癪だったので、私はそのまま病院にもかからずにいた。
しかし、当然世の中はそんな失礼な人ばかりではなく、私のことも平等に扱ってくれる人も多くいた。親切な人、好意的な人。ある時、そのうちの1人が、医療関係の人だったのだが、私のできもののことを心配してくれた。
何かの病気かもしれないから、一度診てもらったらどうだろう。
それが善意から来る言葉だということは明らかだった。善良な人に心配をかけてしまうのは本意ではない。病院にかかった結果、2度の手術を経て、私はできもののない顔になった。
縫い合わせた傷跡が馴染むまで結構な時間もかかり、痛いのにも閉口したが、私にとってはそれだけのことだった。ところが世間的にはそうではなかった。
道を歩いていてもジロジロ見られなくなった。
買い物に行った、あるいは食事をした店で、店員に挨拶しても無視されることがなくなった。
できものがなくなったからといって、私の容姿はどこも秀でてはいない。つまりは普通の人になっただけ。どうやら今まで私は、思ったより多くの人から人間扱いされていなかったらしい。むしろ、今まで私に親切にしてくれていた人たちの方こそが、ごく少数派だったのだとようやくわかった。
誰だって奇異なものを見れば、警戒する。躊躇する。そういう気持ちが心に現れてしまうのは仕方がない。私のかつての容姿は、そういう類いのものだったことは自覚している。それでもわき上がってしまった悪い気持ちを隠そうともせず、人を拒絶して平気な人があれほどたくさんいたのだという事実に、なんだかがっかりしてしまったのだ。
誰のことも信じられないなどというほど子供のつもりはない。けれど、拒絶されていたことを自覚してなお、それを全て忘れて、誰のことも信じるほどのお人よしにはなれない。
私の顔のできものは先天性の病気によるものなので、時間経過でまた増えていくことを手術の時にかかった病院で聞いた。実際その時すでに私の体には20箇所以上のできものがあった。それから10年以上、切除手術を受け続けたけれど、切っては増えるの繰り返しで、手術を受けるのにも疲れてしまった。
そもそも私自身はできものがあろうがなかろうが何の支障もないのに、なぜ見る側のためにお金を払ってまで痛い思いをしなければならないのか。実にばかばかしい。
そんなわけで、近い将来、私にはまた人間扱いされない日がやってくるだろう。そんなことないよと思えるほど、私は人を信じていない。
人間扱いされないのは辛い。人間扱いされることを知ってしまっただけに余計に辛い。辛すぎていつか自分の生を呪いたくなるかもしれない。だけど、そもそも私はこういう人間だった。人からどう見られているかがどうでもよくて、変な目で見てくる方がおかしいと平気で思える人間だった。分かってくれる人もいることを素直に信じられる人間だった。
いつか辛くなった時、そのことを思い出すために、この文を書きました。
無理をしない
今週のお題「わたしの体調管理法」
私はあまり風邪を引かない。
インフルエンザにもコロナにもかかったことがない。
かといって普段から元気いっぱいで体が丈夫かと言えば、そんなことはない。
体力が無いのですぐ疲れて動けなくなるし、少し睡眠時間が足りないだけでも日中気を失いそうになる。
多分私の体は、他の人より無理がきかない。
多くの人が「気合いで何とか」するであろう範囲をなんともできない。
単なる根性なしかもしれないけれど。
だから私には、「無理をしない」という選択肢しかない。
外食は続けない。胃の調子が悪くなるから。
夜更かしはしない。体が動かなくなるから。
連日の遠出はしない。どう考えても体力が保たないから。
週に数回散歩をする時間を取る。座って作業をする時間が長いと、腰が痛くなるから。
「そんな生活何が楽しいの」と言われたことがあるが、実に大きなお世話だ。
些細なことで体調が悪くなる弱さを持っているからこそ、私は私なりに自分の体を大事にしてきた。
それが風邪を引かない体質に多少は貢献しているのであれば、悪くは無いと思う。
学生時代に考えていたこと
学生時代の同級生って、なんでああも敵が多くなるのだろう。
大人になればそれなりに口を慎んでくれる人も、思春期はそうはいかなかった。
私の醜さをあげつらい、「消えろ」くらいのことはよく言われていたのである。
そのとき私が思っていたのは、こんなことだった。
醜いとか美しいとかいうのは、所詮は主観的な評価ですよね。
あなたが醜いと感じるのはあなた個人の感覚で、食べ物の好き嫌いとそう変わりません。
清潔感とか、自分の心がけでどうにかできる最低限のことなら多少なりとも気を遣いますが、あなたが言っているのは生まれついての造形の話でしょう。
あなたが私の見た目を嫌いだから消えろというのは、自分が嫌いな野菜をこの世から消せと言うくらいに傲慢なことですよ。
嫌いなら食べなきゃ良いじゃないですか。
それであなたの体の栄養バランスが狂って不調を来しても自己責任です。
あなたが嫌いなものでも、必要な人は世の中にいるんですよ。
醜いと思うから見たくないなら目でもつむっていたら良いでしょう。
それがお互いのためです。
なんでわざわざ話しかけて見たくないものの姿を目に焼き付けているんですか。
理解できない。
と、いうようなことを考えながら、実際に口に出していたのは
「なんであんたのために私が消えなきゃならないの。自分が消えれば。」
だった。
伝えようとしたところで、伝わったとも思えないけれども
私も若かった。
頑張らない
今週のお題「これを練習しています」
今、頑張りすぎないことを心がけている。
この仕事をはじめてそれなりになるのだけれど、もうやめよう、もう辞めようと何度思ったか知れない。両手で数えるとか言うレベルではない。
それでこの4月、いよいよ耐えられないと悟って、これが最後の1年だと思い定めた。
周りに迷惑をかけるのは嫌で、というより、取り返しの付かない状況を作り出して逃げたという負い目を持つのが嫌で、3月まではやり遂げようと思った。
でも最後だと思うと、最後だからと、余計なことまで考えて、少し、やりすぎた。
辛くて、週の半分は泣いて、目を腫らしたまま車を運転して。
ふと、何をやっているのだろうと正気にもどる。
私はときどきとても視野が狭くなる。
本当に何をやっているのだろう。
負い目を持たないために、自分を嫌いにならないために頑張って、つぶれたら意味が無いだろうに。
だからもうやめることにした。
頑張ることをやめることにした。
他の人が当たり前にできていることだから、自分もやらなくてはという考えが、きっと私の中にはあった。
だから自分にできないことまでやろうとして辛くなる。
できません、と言えばいいと思うことにした。
ほどほどでいい、と思うことにした。
他の人ならもっとうまくやるのだろうけれど、私にはできないことだもの。
もう頑張らないことにした。
まだ、どうしても気になって、やりすぎてしまうけれど。
頑張らないことを、頑張ってみよう。
鏡
鏡に自分の顔を映してみることには、違和感がない。
それは見慣れた自分の顔だ。
そもそも自分の顔は鏡を通してしか見ることがないのだから当たり前だ。
ところが自分の手を鏡に向けると、全く他人の手を見たような気になる。
細かく見ると、爪の形や手の色など、確かに自分の手ではあるようなのだけれど、ぱっと見たときの印象が、「何か違う」。
よく考えてみると、鏡だから左右反転して見えているのだと思い当たる。
人の脳は対象が上下反転しているだけで認識出来ないという話は聞いたことがあるが、まさか左右反転でも同じ現象が起こるとは。
左右反転した手ですら、「自分じゃない」と思ってしまうのだから、反転していない自分そのものともし街中ですれ違っても、わからないのではないか。
ドッペルゲンガーに会ったという人に出会ったことはないけれど、もし会えたら「それ、本当に自分の顔でした?」と聞いてみたい。
自分が思っている自分の顔は、もしかしたらそう思い込んでいるだけの姿なのかもしれない。
梅干しの挽き割り納豆
今週のお題「納豆」
小さい頃の私は、結構な偏食家だった。
野菜が食べられない、ご飯やパンもたくさんは食べられない、
その代わりお菓子や肉はたくさん食べる。
そんな調子だったから一食を食べきるのはかなり大変だったのだけれど
おかずはほとんど食べられないくせに、なぜだか梅干しは好きだった。
我が家の梅干しは母が自分でつけた物で、ほんの少しでびっくりするほど酸っぱい。
そんな梅干しを、毎食、白ご飯に必ず添えて食べていた。
梅干しさえ間に挟めば、苦手なおかずも一口ずつは食べられた。
梅干しのおかげで食べられるようになった物の一つが、納豆である。
納豆自体は苦手だったが、梅干しと合わせて挽き割りにしたものなら喜んで食べた。
そのうちいろいろな物が食べられるようになって、
今はネギを入れたスタンダードな納豆ばかりになったが
もし梅干しがなかったら、今も納豆を食べられなかったかもしれない。
しかし、あの時期、私がそれしか食べられないからと、納豆といえば梅干しの挽き割りばかりだった。
今はネギばかりであることを思えば、親は特別梅の納豆が好きだったわけでもないだろうに。
飽きるだろうし洗い物も面倒なのに、子どものわがままに付き合ってよくやってくれたものだと思う。
偏食を直せと強制された覚えはないけれど、いろいろ考えてくれていたんだなぁ。
今更気づいて、感謝です。