笑うこと

初めて笑った日のことを記憶している人は、たぶん少ないのだろう。

 

私が初めて笑ったのは、まだベビーベッドで寝かされていた赤ん坊の頃のことだ。

それまでの私は、一度も表情を動かしたことが無かった。

ただひたすらに体を横たえている自分に向かって、母親はいつも笑いかけて愛情を示してくれていた。私も心の中では母親をとても愛しく思っていたが、それを表現するという発想がまだ無かった。

笑ったのは、ほんの気まぐれだった。

いつも笑いかけてくれる母親の真似をしてみただけだった。

けれども私の初めての笑顔を見た母親は、「見て、笑ったよ」「かわいいね」と近くにいた家族を呼びながら、いつもよりさらに笑顔になって喜んでくれた。

衝撃だった。

表情から相手の気持ちを知ることができることはもう知っていた。

でも、自分の行動で相手の気持ちを動かすことができるなんて思わなかった。

大げさかもしれないが、自分が世界とつながっていることを知った瞬間だった。

 

普通、赤ん坊の頃の記憶は残らないものらしいが、私はその時の驚きを忘れることができなかった。

多くの人にとって、笑うことは感情と連動した自然なことなのかもしれない。でもそれができなかった私にとって、赤ん坊の頃のこの経験が無ければ、感情を表すことはとても難しかっただろう。

父曰く、赤ん坊の頃の私は常に無表情でほとんど反応が無かったらしい。実際、動かなすぎて発達検診でひっかかってもいる。母は、よくぞそんな赤ん坊にめげずに笑いかけ続けてくれたものだ。おかげさまで、何とか社会の中でもやっていけている。心から感謝している。