エネルギー

今週のお題「爆発」

 

子どもの頃ならいざ知らず、大人になると感情を爆発させることはそうなくなる。

怒りは10秒待つと薄れるとよく言うけれど、

幸せな気持ちもその瞬間だけでふわっと消えてしまう気がする。

それで普段全く困ることはないので、それでいいのかなんて考えることもほとんどない。

 

ただ、赤ん坊がそれこそ火がつくように泣いているのを見たりすると

私はここだよ、気付いて、助けてと

必死にメッセージを出しているのだなぁなんて思って。

誰かと必死につながろうとするエネルギーを、

今の私は持っていないのだと再認識してしまう。

そういうエネルギーがある人が、うらやましいような、でもやっぱり疲れそうだから今のままで良いような。

自分でもよくわからない。

 

どんな自分になりたいかは、その時々の自分が感じて決めれば良いと思っている。

いつかの話

最近、よく先のことを考える。

 

私は今の仕事を辞めて、小さなアパートで一人で暮らしている。

最低限のものを買って、最低限のものを持って、ほとんど誰とも関わらずに。

朝が来ると一日分の食事を作って、それを決まった時間に少しずつ食べる。

あまり人の多くない時間帯に外へ出て、少しだけ散歩をして家に戻る。

テレビもない部屋で、音楽をかけて、図書館で借りた本を読んで過ごす。

 

そういう生活を一般的には寂しい生活だと言うことは知っているけれど、私自身は寂しいとは思えない。

そんな生活でも、人と関わらずには暮らせない。

いつも行くお店の店員さんとのあいさつ、隣の部屋に住む人の生活する音、散歩の途中ですれ違う人。

それだけあれば、もう十分一人じゃないと思えてしまう。

 

確かに、一人で暮らしていれば怪我や病気で不自由することはあるけれど、

それ以上に、誰かと暮らす自分が想像出来ない。

一人の時間があることの方が、その何倍も価値がある。

 

価値観が人と違うのは仕方がない。

せめて他人に迷惑をかけないで済むように、自分の面倒くらいは見れるように、せいぜいお金を貯めておくとしよう。

懐かしの漫画

今週のお題「一気読みした漫画」

 

漫画はそれなりに読んできたほうだと思う。

その中でも一気読みしたものとなると、日渡早紀さんの『ぼくの地球を守って』が印象深い。

読んだのは多分高校生くらいで、すでに古本屋に全巻並んでいた。

 

最初はわりとほのぼのしたお話かと思っていたが、前世の話が具体的になっていくにつれて、それが現代にも影響を与えて、どろどろとしたものになっていく。

人間のいろんな部分、相手を思う美しい部分ももちろん描かれているけれど、強く思うがゆえに出てしまう醜い部分もたくさん描かれていて、当時は衝撃だった。

 

内容は…これから楽しみに読む人もいるかもしれないので一応隠しておきます。

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人生設計

今週のお題「100万円あったら」

もし100万円あっても、おそらく私の 生活は変わらない 。
煩わしい日々の出来事にうんざりしながら 、それでもささやかな幸せに心を何とか救われて、 今の生活を続けていくのだろう。

抜け出したいと思っているくせに 何もできていない私は、 それなら例えばいくらお金があれば 、生活を丸ごと変える 決心がつくのだろうか 。
現在の仕事のまま定年まで勤め上げたとして 、私が生涯に得るお金は 1億から2億の間。

それくらいあれば仕事を辞める決心がつく?
いやそうとも限らない。

臆病者の私は、選ばれされたような顔をしながらその実、自分で今の生活を選んでいる。
自分で選んでいるくせに、不幸なふりとは何事だろう。

結局私は怖いのだ。
自分で自分の人生を決めることが。
誰からの命令もなく 自分の行動を決めていくことが。
私は、大人のふりをした子供にすぎない。

一度立ち止まって考えてみるべきだろう。
自分が何を望んでいるのか
自分にとって幸せとは何なのか
幸い私は夫も子もなく、皮肉なことに私が最も恐れる自由な状態だ。
私を縛っているものは、私自身のささやかな将来への不安だけ。

あとは選ぶだけ。
そして選んだら、もう文句は言わない。
やるべきことは、それだけだ。

優しくすること

生来冷淡な性質なので、人の気持ちがわからないことはよくあった。

そんなことで傷つくのかと目をむき、こっそりと溜息を吐きながら友人に付き合った子ども時代だった。

それでも人の中でうまくやっていけるように、優しい振る舞いだけは何とか身につけて、親譲りのあたたかい微笑みを貼り付けて生きてきた。

 

そうして見た目だけはたいそう優しそうな、中身はいっそう冷淡な私ができあがった。

 

優しくなれなくても、優しいふりをして人を傷つけないようにすることはできる。

それは、本当には優しくなれない私なりの精一杯の誠意である。

しかしながら所詮はハリボテなので、多くは求めないで欲しいのだ。切に。

 

かつて父は私に言った。

「一度気まぐれに手を貸して続けられない親切は、かえって不親切だ。一度手を貸したのなら、責任を持って手を貸し続けるべきだ。」と。

そんなことを言い出したら私は一切の親切をやめなくてはならず、そうすると恐らく社会生活に支障を来すため、中学生だった私は自分なりのルールを決めた。

 

「親切は自分の損にならない範囲で行う。」

自分にも利益になるとか、何かのついでとか、そういう軽い範囲でできる親切だけをすることにした。

親切にすることに責任を感じだしたら重荷にしかならないので、そんなときは恨まれようがしらんぷり。絶対にやらない。

 

たぶんそのルールは今も私の中で健在で、自分の負担になる親切は絶対にしない。

なのに「優しそうな感じ」に騙されるのか、どこまでも要求して良いと思い込む人間がたまに居るのだ。

 

 

今になって、父の言葉が返ってくる。

こうなったのは、冷淡なくせに優しい人間のふりなどした罰だろうか。

不安になると

ときどき、真っ暗な湖の真ん中で、小さな小舟の上に一人で居るような気持ちになる。

どこにも光は無い。とにかく進まなくてはならないのだという教えに従って闇雲にオールを動かすけれど、水面が波立って小舟が不安定に揺れるばかりで、これで進んでいるのかさえ判然としない。

 舟に穴なんて空いていないのに、水の冷たさが舟底から伝わってきて、恐ろしくなる。

いつ穴が空くかと、沈んでしまうのでは無いかと恐れながらオールを振り回し、それでさらに舟がひっくり返りそうなほど揺れて、また恐ろしくなる。

どう頑張ったって、ここからは逃げられない。

いっそ舟から飛び降りて、泳いだ方がましだろうか。

そうめん嫌い

今週のお題「そうめん」

 

なぜと言われてもよくわからないのですが、小さい頃からそうめんは苦手でした。

食べられないわけでは無いのですが、好んでは食べない。

私にとってはそんな位置づけの食べ物でした。

実はラーメンもそんな感じなので、麺類があまり好きでは無いのかも知れません。

 

覚えているのは小さい頃。親戚ぐるみで外食に行ったら、そうめんのお店だったということがありました。

私のテンションはだだ下がりでした。

せっかく連れてきてくれているのに悪いので「そうめん嫌い」とは言えなかったのですが、食べるものもないしすぐに暇になってしまいました。

しかし親戚の会食といったら、大人同士の会話がメインで、長くなることは目に見えていました。

仕方なくトイレに行くと言って、しばらく店の庭でぼんやりしていたのですが、今度は帰ってこない私を心配してみんなで探されてしまいました。

小学校にあがったばかりくらいの子どもがいなくなったら確かにそうなると今はわかるのですが、当時は心配させたことに驚いて、「子どもって不便だな」とがっくりしたことを覚えています。

そうめんオンリーの店で無ければ、もう少し座っていられたんですけどね・・・・