優しくすること

生来冷淡な性質なので、人の気持ちがわからないことはよくあった。

そんなことで傷つくのかと目をむき、こっそりと溜息を吐きながら友人に付き合った子ども時代だった。

それでも人の中でうまくやっていけるように、優しい振る舞いだけは何とか身につけて、親譲りのあたたかい微笑みを貼り付けて生きてきた。

 

そうして見た目だけはたいそう優しそうな、中身はいっそう冷淡な私ができあがった。

 

優しくなれなくても、優しいふりをして人を傷つけないようにすることはできる。

それは、本当には優しくなれない私なりの精一杯の誠意である。

しかしながら所詮はハリボテなので、多くは求めないで欲しいのだ。切に。

 

かつて父は私に言った。

「一度気まぐれに手を貸して続けられない親切は、かえって不親切だ。一度手を貸したのなら、責任を持って手を貸し続けるべきだ。」と。

そんなことを言い出したら私は一切の親切をやめなくてはならず、そうすると恐らく社会生活に支障を来すため、中学生だった私は自分なりのルールを決めた。

 

「親切は自分の損にならない範囲で行う。」

自分にも利益になるとか、何かのついでとか、そういう軽い範囲でできる親切だけをすることにした。

親切にすることに責任を感じだしたら重荷にしかならないので、そんなときは恨まれようがしらんぷり。絶対にやらない。

 

たぶんそのルールは今も私の中で健在で、自分の負担になる親切は絶対にしない。

なのに「優しそうな感じ」に騙されるのか、どこまでも要求して良いと思い込む人間がたまに居るのだ。

 

 

今になって、父の言葉が返ってくる。

こうなったのは、冷淡なくせに優しい人間のふりなどした罰だろうか。