美しさの呪縛

若き日のオードリー・ヘップバーンは、自分の容姿にコンプレックスを持っていたらしい。大きな目に太い眉。それがほっそりしたスタイルと相まって、今の私達にはたまらなく魅力的だけれど、それは当時の流行りの顔ではなかった。彼女はメイクで自分の顔を流行りのものに近づけようと努力したが、女優として認められることはなかった。自分の個性を殺すのではなく、生かすメイクを考え、ようやく主役になることができた。「ローマの休日」である。
ジブリ映画「ハウルの動く城」を初めて見たとき、私はその話を思い出した。
大きな瞳を持ち、茶色の髪を簡素にまとめ、「ネズミちゃん」と呼ばれるほどに痩せた体を地味な服に包んだヒロイン・ソフィーは、豊満な肉体と美しい金髪を持つ妹に対して明らかにコンプレックスを持っていた。その姿は、流行の美しさと違う自分を否定していたオードリー・ヘップバーンそのものだった。
妹は接客業に就き客の男に口説かれていたが、ソフィーは服飾店の半地下の作業場で針子をし、男には拒否反応すら示していた。
ソフィーが、仕事で作った帽子を鏡の前で被ってみるシーンがある。にっこり笑うのも一瞬のことで、ソフィーはすぐに顔をしかめる。華やかな帽子をいくつ作ったところで、自分には似合わないと諦めているのだ。服飾店に勤めるくらいだから、きれいな服にも興味があるはずなのに、自分に自信が無くて手に取れない姿がもの悲しい。
そんな彼女が前向きになるのは、荒れ地の魔女によって老婆に変えられてしまってからだ。「まあ、大変大変」と言いながら、おそらくは仕事と生活に必要な範囲しか移動したことが無かったであろうに、とうとうハウルの住む城にまで乗り込んでしまう。とんでもない行動力だ。
ソフィーはその後、老婆と少女の姿をしばしば行き来する。基本は老婆だが、仲間との生活のために頑張っているときは生き生きして、少し若返る。ハウルに恋する気持ちが強くなると少女になる。なのにハウルから「君は美しいよ」と心を寄せるようなことを言われると、都合よく老婆に戻るのだ。
ソフィーにとって、老婆で居ることはまさしく都合がよかったのだろう。老婆なら、美しくなくても仕方が無い。恋と縁遠くても構わない。若い女性として当然求められる資質から、老婆という姿は簡単に逃れさせてくれた。
一方、美しさにより固執しているのはハウルである。おばあちゃんになったソフィーには「美しいよ」なんて言うくせに、自分は髪の色がちょっとおかしくなったくらいで、おしまいだの美しくないと生きている価値が無いだのと言って液状化する。作中、ソフィーが一番怒ったのはこのシーンでは無いだろうか。見ていて私も思った。世界一の美男子(たぶん)が言うなよ、他の人の存在を全否定する気かと。ただよくよく考えると、あれだけ美しいハウルは、その美しさでしか存在を認めてもらえなかったのかもしれないなとも思った。「美しくないと生きている価値が無い」のは全人類に向けた言葉では無くて、それしか取り柄の無い自分自身のことだったのだとすれば、自己肯定感が低いという点で、ハウルとソフィーは似た者同士だったのかもしれない。

美しさとは、つくづくやっかいな価値観だ。何を美しいと思うかなんて人それぞれで良いはずなのに、人から美しいと思われているかは気になって仕方が無い。それぞれの魅力を出せば良いと言うのは簡単だが、大衆が持つ「美しさ」の固定概念をひっくり返すのは大変な作業だ。
もしかしたら、既存の概念をひっくり返そうなどと考えて他人の評価を気にしている限り、本当の美しさなんて手に入らないのかも知れない。何と思われても良い、これが自分だと開き直った人は自信にあふれていて美しい。きっとそうなるためには、容姿以外の、自分を支えてくれる何かが必要なのだろう。何かに打ち込み、自信を持つことが、「他人の目」という呪縛から解き放ってくれるのだと思う。