美しい人

私の母は美しい人で、授業参観などで母が教室に入るとまわりがざわっとするくらいの、際立つ美貌の持ち主だった。

一方娘の私はといえばむしろ醜い方の容姿で、親子だと言うといつも一瞬「えっ」という気まずい空気が流れる。

こんな私でも本当に幼い頃は「大人になったらきっとお母さんみたいな美人になるよ」という無責任な社交辞令を信じていたのだけれど、あの気まずい空気に何度もさらされて、小学校に入った頃には現実を受け入れた。

 

なぜなら私は母とはかけらも似ていなかった。

 

母がスマートで私がぽっちゃりだったことを差し引いても、骨格が全然違うのだ。どこの国の血が入ってらっしゃるのですかといいたくなる彫りの深い目元も、高い鼻も、芸術家がデザインしたような理想的な二重瞼の目も、私には何一つ受け継がれなかった。すらりとした女優のように華やかな美女の娘は、無闇に体が大きいだけの冴えない醜女だった。

 

だからといって私が母の美貌を妬んだり、あるいは奮起して自らを美しくしようと努力したりしたかといえば、そんなことは全くなく、むしろ自分の容姿には興味を持てなかった。

生来の気質もあったのだろうし、目の前に完成された美があるのにわざわざ不完全な容姿をどうこうしようというやる気が起きなかったという理由もほんの少し手伝って、冴えない娘はますます冴えなくなっていった。

 

年頃と呼ばれる年代から足がはみ出る頃になってようやく、私は私の外見と向き合えるようになった。

手をかけて来なかっただけあって決して美しくはなかったけれど、実直に生きてきた好ましい雰囲気だけは確かにあって、それはそれで悪くないと思えるようになったのだ。

 

美しい人にはなれなくても、感じのいい人になろう。

 

母のようになれないからといって自分の外見から目をそらしていた私が、結局は一番美醜にこだわっていたのだろう。

私は私の着たい物を着て、生きたいように生きればいい。やっとそんなふうに開き直れるようになった。

 

母が美しい理由は、何も生まれついての資質だけではなかった。

常に背筋を伸ばし、まっすぐに歩くこと。

自分の機嫌が良くても悪くても、常に笑顔で居ること。

人を悪く言わないこと。

通りすがりの人でも関係なく、お互いが気持ちよく過ごせるように気遣うこと。

そういった普段の何気ない振る舞いが、母の美しさを支える芯のようなものを作っていたのだと思う。

そしてそういった内面的な要素を、母は小さい頃から私にも教え込んでくれた。

母のように何もかもできているとは言えないけれど、必要以上に自分を卑下しなくてもいいだけの自信を持てるようになった。

 

美しい人にはやはり惹かれる。

しかし自分がその顔なら良いのにとは、やせ我慢でなくあまり思わない。

私はこれでいいと思っているし、何より私にとって世界で一番美しい人は、今も昔も母なのだ。