身近な善人

今週のお題「下書き供養」

 

お蔵入りしようかと思っていましたが・・・・

書いてから時間がたつと、読み返しても平気になってきました。

せっかくの機会なので出してしまいます。

 

 

私に人の善意というものを教えてくれたのは兄だった。

同じ親から生まれて同じように育ってきたのに、その善性はいったいどこで拾ってきたのかと思うくらいに、物心ついたときには既にいい人だった。

私は兄にいじめられたことが一度も無かった。二歳しか離れていないというのに、兄は私を無条件に大事にしてくれる人だった。私はそんな兄になついていた。どんなときも兄の後ろをついて行った。もしかしたら親以上に兄の言うことを聞いていたかもしれない。

兄の人の良さを言葉で説明するのは難しい。あえて言うなら彼は、自分の利益と他人の利益を分けて考えないのだと思う。わがままを言ってはいけないとか、周りのために我慢するとか、そういうルールで押さえ込むべき身勝手さをもともと持っていなかった。自分が嬉しいことも、周りが嬉しいことも、全て同じように嬉しいのだ。

一方私は、兄ほどにはいい人になれない自分に気付いていた。自分が欲しいものは他人の分を取ってでも欲しかったし、周りが困っても自分の欲を優先させたい気持ちが常にあった。兄がそうしないから控えていただけで、私はそういう人間だった。

善意だけを注いで育てれば人は善意しか持たないと考える人が居るなら、そんなことは無いと私は私の存在を持って反論しよう。人間には、元から悪い心を持つやつだっているのだ。むしろその方が多いはずなのだ。

たとえば、兄弟を押しのけてでも親の愛を受けたいと願うのは、実に子どもらしい欲求であるはずだ。

両親は私にも兄にも惜しみなく愛情を注いでくれていたが、私が勉強を頑張って兄より成果をあげているにもかかわらず、兄はその性格の良さから同じように愛されていた。私は、兄が私のように能力や成果では無く、純粋に人格を愛されていることに嫉妬していた。

だから、一度も私に意地悪なことをしなかった兄に対して、私は意地悪をした。「自分の方が親に愛されているはずだ」と主張した。小学生の時だ。「そんなことはないはずだ」と反論してくれれば満足だった。反論してくれると思っていた。兄の方が純粋に愛されているのは明らかだったから。ここで何とか兄を言いくるめて、兄の方が親に愛されている分を取り返そうと思ったのだ。けれどそうはいかなかった。兄は、どちらの方が愛されているかなんて考えたことも無かったらしい。私の言葉は兄を傷つけただけだった。

そのとき私は、愚かで汚い自分を自覚した。これはもうどうしようもないことなのだと悟った。どんなに善人になりたくても、私は兄のようにはなれない。兄のように愛されることは無い。このどうしようもない自分を受け入れ、自分なりに生きていくしかない。

幸い世の中には、私のようにずる賢いやつも、私より汚いやつもたくさん居た。だからそれなりに傷つけながら、傷つけられながら生きてきた。お互い様なら気が楽だった。しかし兄ほどの善人には未だに会ったことが無い。

兄がいなかったら、私はもっとろくでもない人間だっただろう。

私は本当の善人ではないけれど、善意のある人がとるであろう行動をとることはできる。少なくとも周囲を嫌な気持ちにすることは減らすことができる。

兄が私をまともな人間にしてくれた。だからせめて私は、まともな人間でいよう。悪意で人を傷つけることは二度としないようにしよう。 

そう思って、生きてきた。

近くにいい見本さえあれば、人の性格もある程度矯正されるものだと、最近しみじみ思っている。