米津玄師さん『vivi』について

以前、ブログに書いた記事の中でこの歌に触れたことがありました。

その中で私はこの歌を家族愛として解釈したのですが、時間が経って改めて読んでみてもやはりそう解釈できるように思ったので、ここでもう少し整理して書いておきたいと思います。

まず私がこの歌を家族愛として解釈したのはまさにこの歌い出しのためでした。

 

  悲しくて飲み込んだ言葉 ずっと後についてきた

  苛立って投げ出した言葉 もう二度と戻ることはない

 

まるで親(特に母親)に対して素直に物が言えない思春期の少年のようだと思ったのです。

しかし、少年もいつか成長します。今まで思ってもいないことを言ってしまっていたことを思い返し、謝りたい、素直な気持ちを伝えたいと考えますが、事はそう簡単には進みません。

 

  言葉にすると嘘くさくなって

  形にするとあやふやになって

  丁度のものはひとつもなくて

  ふがいないや

 

大事なことほど伝えようとすると上手く言葉にならないものです。

「僕」は思いを伝えることができずうなだれます。

 

  愛してるよビビ

  明日になれば

  バイバしなくちゃいけない僕だ

  灰になりそうな

  まどろむ街を

  あなたと共に置いていくのさ

 

別れ(ここでは実家がある街から出て一人暮らしをするのでしょう)はもう明日に迫っています。伝えたいことは溢れるほどあるのに、形にできないもどかしさ。

夜遅くまで苦心して手紙を書こうとしますが、うまくいきません。

 

  あなたへと渡す手紙のため

  いろいろと思い出した

  どれだって美しいけれども

  一つも書くことなどないんだ

 

  でもどうして言葉にしたくなって

  鉛みたいな嘘に変えてまで

  行方のない鳥になってまで

  汚してしまうのか

 

たくさん思い出はあふれてくる。そのときの気持ちも思い出せる。

でもそれを言葉にすることは難しくて、

無理に表現しようとすればどこかに嘘が混じってしまう。

言いたかったことが、自分でもわからなくなってしまう。

伝えたかったことを汚してまで言葉にするのは、どうしようもなく苦しかった。

 

  愛してるよビビ

  明日になれば

  今日の僕らは死んでしまうさ

  こんな話など

  忘れておくれ

  言いたいことは一つもないさ

 

もういい!なんでもない!と、「僕」は伝えることを諦めてしまいます。

どうせ明日には別れて、この関係は壊れてしまうのだから。

そうしてとうとう、朝が来てしまいます。

 

  溶け出した琥珀の色

  落ちていく気球と飛ぶカリブー

  足のないブロンズと

  踊りを踊った閑古鳥

  忙しなく鳴るニュース

  「街から子供が消えていく」

  泣いてるようにも歌を歌う

  魚が静かに僕を見る

 

「溶け出した琥珀の色」は昇り始めた朝日の色かなと思いました。

「落ちていく気球」はしぼんでいく「僕」の勇気、

「飛ぶカリブー」は逆にふくれあがっていく暴力的な気持ち、

「足のないブロンズ」や「踊りを踊った閑古鳥」はそれによってフラッシュバックした幼少期の破壊や失敗を示唆しているような気がします。

米津玄師さんの他の歌の歌詞と関連しているそうなのですが、

あくまでこの歌詞単体から受けた印象として。

 

朝になり、ニュースが流れ始めます。

それは、地方から若者が出て行ってしまい、街が過疎化しているというものでした。

きっと「僕」は「自分のことだ」とどきりとしたことでしょう。

 

最後の「泣いてるようにも歌を歌う/魚が静かに僕を見る」の部分はなんとなく

松尾芭蕉さんの

  行く春や鳥啼き魚の目は涙

という俳句を思い出してしまいました。

この俳句は芭蕉さんが旅に出るときに沢山の人が見送りに来てくれて、鳥や魚まで別れを惜しんでくれているように感じているというものです。

もしこの俳句に重ねているとしたら、芭蕉さんに比べて「僕」は全く別れを惜しんでもらえていません。

「鳥」かどうかはわかりませんが、泣くどころか歌を歌っているし、

「魚」も涙など見せず静かに「僕」を見ているだけです。

それはやはり、幼少期からのさまざまな失敗が尾を引いているのでしょう。

別れを惜しんでくれる人間関係を、「僕」は築くことができませんでした。

 

  どうにもならない心でも

  あなたと歩いてきたんだ

 

自分にも制御出来ない心で、沢山の人を傷つけた。

でもそんなとき、一緒に相手に謝り、不器用な「僕」に寄り添って生きてくれたのは、やはり親だったのでしょう。

あるいは、「あなた」は自分の心かもしれません。

だとしたら、どうしようもない自分自身を「僕」が受け入れたことを表しているのでしょう。

 

  言葉を吐いて

  体に触れて

  それでも何も言えない僕だ

  愛してるよビビ

  愛してるよビビ

  さよならだけが僕らの愛だ

 

別れの時が迫っています。

何の意味もないような会話はできます。

肩に触れたり、もしかしたら軽いハグもしているかもしれません。

なのに、肝心な、一番伝えたかった言葉は何も言えません。

それはきっと「愛してるよ」の一言だったのです。

でも結局言えないまま、別れてしまいます。

成長し、親元を巣立っていく子供。

その姿を見せることが「僕」にとっての唯一の愛情表現でした。

そしてそれを見守ることが、親の愛でした。

 

 

と、解釈してみましたが、個人的感想なので、読む人・聴く人によって解釈は無限大に変わるのだろうと思います。

また数年経って解釈が変わっていたら面白いなと思うので、ひとまず残しておきたいと思います。